確率議論のできる範囲

なぜ1000年に一度の天災を考慮する必要があるのか
原発ネタなんだけど社会問題を確率論一本で議論するのは全然話にならない好例として取り上げてみる。
「××をどうすべきか?」型の議論を確率論でできるのは前提条件(この場合は天災の定義や発生頻度)と目的関数(たぶん原発議論では社会全体の幸福)がほとんどの人たちの間で合意できる場合だけだと思う。
原発議論はこの条件が死ぬほど成り立たない事案ですね。
中学生とかの確率の授業でこういう話をするのはなかなか味わい深いものがありそうですが、大の大人が大の大人を相手にする話じゃないと思う。